Art Avenue 永詔三の造形
Brief Sketch of Tomonaga's Works
自然に還る素材との対話

 友永詔三は、高知県の窪川町、田んぼをはさんで100メートルほど離れたところに四万十川の清流が走る地に生まれ育った。裏の山に遊び、川に遊び、街 や海を目ざして気の赴くままに歩くこともしばしばだったという。舞台美術を志して武蔵野美術大字で学ぶために上京するまで、友永さんにとって自然が友であ り、師でもあった。
 武蔵美を卒業して間もないころ、友永は思いがけない転機を迎えた。オーストラリアのEXPO'70上演劇のためのキャラ クターデザイン・オーディションで、世界各国からの応募500点の中から最高位で選出されたのである。美大を卒業後、舞台製作の会社に勤めていた23歳の 年のことだった。「こちらへ来て人形つくりを勉強してみないか」とシドニーの人形劇団Scriven's Tintookiesから誘われ、渡豪した。その劇団で学んだあと国立人形劇団に移って人形美術制作に携わるかたわら、TVショウ番組などの美術制作に参 加してその地で1年半を過ごす。同国で演出家のピーター・スクリベンとマリオネット美術家のイゴール・ヒチカの両氏に師事、造形作家としてのありようを学 んだことが彼の大きな財産となった。
   人形劇のための人形制作は、舞台美術を志していた友永を、素材としての「木」に向かわせることでもあった。郷里では木は生活そのものであり、日用の 生活品から玩具まですべてが自然の樹木でまかなわれていた。また、山中で呼吸しながら朽ちていく樹木の姿を胸に刻みこんでもいた。そんな彼にとって、木は 単なる素材を越える特別なもだった。高知の自然を原風景として胸に刻みながら造形作家として木に向き合い、制作の幅が広がるほどに、その思いをふくらませ た。作品の中に、樹木の生命を蘇生させ、あるいは新たな生命を吹きこむ。自然のままの形、木肌や木目を最大限に生かし、材質に応じてその表現をする。素材 としての木を自分が思うがままの形にねじ伏せるのではなく、木が「こういう形にしてほしい」という瞬間を待つ。若いころには少女像の仕あげとして、下腹部の切込を入れ るその時、交合するような感覚を覚えることもあったというほど、木にこめる思いは強い。
  オーストラリアから帰国後、友永は幅広い活動を始め る。サンリオの人形アニメ『くるみ割り人形』の人形デザイン、渋谷パルコ西武劇場『夏の夜の夢』の人形美術、劇団薔薇座の『セレブレイション』、演劇セン ター飛行船『ピーターパン』の衣装デザイン、NHK連続人形劇『プリンプリン物語』の人形美術等々を手がける一方、ニューヨークでも個展や舞踊劇『卑弥呼  日出る国の女王』を上演、脚本・演出・舞台美術・人形制作を担当してニューヨークタイムズ紙等にも採りあげられた。そのかたわら終生のテーマである「少 女」像に取りくみを続ける。人形劇の人形のように特別のキャラクターを要求されることのない、自由な発想による作品づくりである。それが少女像だった。      このページの上へ  
   その少女像は、例えば西洋のヴィーナス像のように成熟した、完成した姿態の表現ではない。「少女の未完成な肢体がもつ精神的な不安定さに、女性の魅力が 感じられる。思春期を脱して成熟した女になる寸前のゆれ惑う不安定さ、危うさ、それが故に生まれる美しさというのか。私が憧憬し、理想でもある女性美で す」というように、むしろ少女に女性と女性美の本質を見いだしているようだ。その反面「高知から東京へ出た時、洗練され、成熟した女性を初めて見て、卑屈 な気持ちというか、強いコンプレックスのようなものを感じた。その反動があるのかも知れない」とも言う。
  舞台美術やTV番組のキャラクター、 さらにオリジナルの少女像と表現の幅を広げる友永さんは、和紙と木を組みあわせた灯りの造形や自刻、自摺り、手彩色の木版画制作へと進む。「人形だけやっ ていると、どうしても視野が画一的になりがちだし、時に気分転換をしたくなることもある。なによりもボクは刀を使うことに慣れているし、平面芸術としての 木版画に、立体にはない魅力を感じていました。木という材質へのこだわりというか、魅力に取りつかれていることもありますしね」
  木と和紙の 「灯り」を作りはじめたことにはひとつの偶然が絡んでいた。ある時、幼児向けのTV番組のためにカメレオンを作り、色の変化をどう表すかが課題となった。 その方法として、胴体を半透明の和紙で作って中に電球を入れ、七色に変化させることを思いついたのである。以来、木の少女像、ピエロ像や、魚、果実等を和 紙でつくり木組みあわせた「灯りの造形」という新たな領域を拓いていく。
  枠にはまらない多様な表現手法をとる友永の軸にあるのは、木とい う材質への強い愛着であり、こだわりである。かつてオーストラリアで学んだ「いかに一つの枠からはみ出すことができるか、いかにオリジナルであり得るか」 ということを、木を媒介に実践することでもある。「木と向きあっていると、こういう形にして欲しいと木がいう瞬間がある。自分の思い通りにねじ伏せようと すると、いい作品はできない」そうした仕事を展開するために友永は自力でアトリエを設けた。それまでのアトリエは東大和市の街中 にあり、機材の騒音、作品や木材の保管場所などの問題から制作活動に制限があったため、昭和59年に東京・あきるの市(当時・五日市町)の山間部にある古 民家、100年は経ているという民家を購入して、その隣接地に自力で作ったものだ。その建築と同時に、母屋も10年ちかくをかけて改築、そこに自作や『プ リンプリン物語』の人形を並べて「深沢小さな美術館」として公開している。住まいさえも夢幻の空間にしつらえたのである。
  桧材がふんだんに使 われていたその古民家は、友永が高知の山中で見た「呼吸をしながら朽ちていく樹木」と同じものに映ったに違いない。梁や大黒柱など骨格だけ残して、屋 内はもとより外観も従前の面影もないほどの大改修である。その家自体が友永作品であるかのようである。(文・北湯口孝夫)
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友永詔三氏