Art Avenue  友永詔三の造形
Brief Sketch of Tomonaga'a Works
自作を語る 
 木彫から灯りのオブジェ、モニュメントまで

遊び道具
 昭和19年12月8日、四万十川の上流に位置する高知県窪川町の山あいに私は生まれた。生家は代々の農家であり、家の前には四万十川の水路式ダムがある。私の物ごころがついたころは戦後の何もない時代で、遊び道具などなく、野山や川原で自然相手に遊ぶ毎日だった。玩具と言えばすべて父の手作りで、山から切ってきた木を利用して、チャンバラごっこの刀やバットなどを作ってくれた。
 私の造形作家としての萌芽は、父が刃物を器用に使い、それらの遊び道具を作るのを、そばでじっと見ていたことに始まるかもしれない。小学生時代、あまり活発でなかった私は自分でものを作るのが好きで、こっそりと刃物を持ち出しては、魚を突くモリだとかウナギを捕る仕掛けのかご、釣りざお、竹とんぼなどを作ったりした。

四万十川
 子供のころの遊び場所だった四万十川は、私の原風景といっていいだろう。学校から帰ってくると、かばんを玄関に放り投げ、一目散に川原へ駈け出していった。家の前を流れる四万十川にはいろんな生き物がいた。ナマズ、ウナギ、コイ、フナ、ハヤ、エビ、カニ……と、日本でもっとも美しいといわれる川だけに種類もじつに豊富だった。その中でよく捕ったのはドンコという、オコゼに似た魚だった。顔はちょっとグロテスクだが、動きが鈍くて、子供でも簡単に手でつかみ捕ることができた。捕った魚はすぐその場で食べた。流木を拾いあつめ、火を起こし、小枝に魚を通して焼くのだが、そよ風が川面を渡るなか、友だちや弟たちとワイワイ言いながら食べたその味は、大人になったいまでも忘れることはない。
 四万十川はまた景勝の地でもある。毎年冬になると、川向こうの松林に白鷺が飛んできた。その風景が子供心に印象的で祖父から買ってもらった油絵の具で何枚も絵に描いた。その当時、油絵の具を持っている子供はいなかったので、うれしくて、朝から夜中まで絵の具をこねくりまわしていた。春にはダムのまわりの吉野桜が咲きみだれ、赤や青の電球が取りつけられ、夜桜見物の人たちが飲めや踊れのどんちゃん騒ぎがはじまった。そんなときは私も夜遅くまで遊びまわり、両親に早く寝るよう叱られたものだった。
 私が制作する作品のイメージのもとになっているのは、こうした四万十川の自然の美しさであり、いまでも目をつむると、山々に咲く花の色、緑の中の真っ赤なユリ、秋祭りの踊りのシーンなどがあざやかに浮かび上がってくる。

造形へのめざめ
 自宅の裏手に神社があり、その近くで白い粘土が取れるところがあったので、弟を連れてよく掘りに行った。その粘土で、当時の人気力士だった若乃花や栃錦の相撲人形をつくったところ、近所の人たちから「ようできちゅうのう」とほめられた。それがうれしくていくつもいくつも造った。絵を描く楽しさと同時に、立体造りのおもしろさを知った最初である。
 中学生になったとき、初めて40センチほどの大きさの人形を制作した。桐材で顔と身体と手を作り、白の水彩絵の具で仕上げ、髪は麻の現在を自分でしごいてこしらえたのだが、その人形の髪を祖母が結いあげ、母が着物を縫い着付けしてくれたときは、ほんとうにうれしかった。その作品はいまでも田舎にあり、祖母が亡くなる寸前まで大事に保存してくれていた。

人形との出会い
 22歳のとき、オーストラリアの人形劇団が募集した人形原画コンテストがあり、それに応募した私は運よく入選した。そこでピーター・スクリベンというオーストラリア人の演出家を知り、彼からデザイン画だけでなく、キャラクター人形を作るように勧められた。そしてマリオネットの美術家イゴール・ヒチカというというロシア人を紹介され、私の本格的な人形づくりが始まることになる。

 オーストラリアでは、テレビや舞台用の人形を必死になって制作した。そこでは人形作りに関するノウハウを徹底的に学んだが、一番役だったのは彼らの創作に対する気構え、考え方だった。日本では往々にして自分の枠をつくり、そこに閉じこもる傾向があるが、むこうではいかに枠からはみ出るかということが前提にあり、その上にまったく自由な発想でスケールの大きい作品を作ろうとすることだった。そうした考え方は、後年の私の創作活動の骨格をなすものであり、いまも私の大切な教訓となっている

木とあかりのオブジェ
 オーストラリアにいるとき、夜のパーティーに招かれたことがあった。家の中に入ったら薄暗い感じがするのでそのことを言うと、同じ出席者だった演出家の一人が「ぼくたちは昼間は太陽のあかりを楽しむんだ。そして夜は夜の間接照明のあかりを楽しむんだ」と言った。それを聞いて、なるほどと感心した。現在、自分が造っている「木とあかりのオブジェ」も、生活の中にとけこみやすい素材として、やわらかな紙の質感とともに木のぬくもりが伝わるような作品になればと念じている。

『プリンプリン物語』
 人形劇と一口にいっても、舞台の人魚劇、テレビの人形劇、アニメーションの人形劇といろんな種類がある。私はそれらを一通りやってきたが、その中で一番大きな仕事といえばやはり、NHKテレビの連続人形劇『プリンプリン物語』(作・石山透)だろう。私はその番組で人形デザイン、制作を担当した。
 ストーリーはプリンプリンというお姫様がオサゲ、ボンボン、カセイジン、モンキーを供に連れ、自分の両親をさがし求めて世界各地をまわるという物語である。昭和54年4月から57年3月末まで放映された。私はそれまで主に上から糸で操るマリオネットの勉強をしていたが、『プリンプリン物語』の場合は下から棒で操る人形だったことから、関節の部分に球を入れ、顔や手足が自由に動くようにした。素材はきめの細かいサイプラス(アメリカヒバ)という木を使用した。
 番組で制作したキャラクター人形は全部で五百体近くにのぼる。その大半は木彫で作った。この中で苦心したのが、登場人物の顔や服装である。それぞれ個性を持たせなければいけないので、当時原宿の名物となっていた「竹の子族」をよく見に行った。彼らは服装やアクセサリーなどに趣向を凝らし、自分をアピールする強い個性を持っていた。それが私にはひどく新鮮であり、人形の衣装づくりの参考にもなった。

舞台美術と芝居
 テレビがない私のこども時代、娯楽といえば村にまわってくる地方劇団の芝居や、人形浄瑠璃の一座、それに木と木に間に張ったスクリーンに映し出される野外映画などがあるだけで、しかしそれだけにそれらから受けた刺激は、のちのちの自分の感性や美意識に深くかかわっているように思われる。
 成人してから、人形や木彫を作るかたわら、舞台美術や演出の仕事をやるようになったのも、そうした子供のころの文化への憧れが根っこになっており、いまでもゴザの上に座ってみんなが見られるような野外劇には強い郷愁を覚える。

“聖少女”伝説
 なぜ女性ばかりを作るのか、とよく聞かれる。その質問に対する答えは、私が男であり、女性が好きだからという一言につきる。しかし、女性であれば誰でもいいかというと、もちろんそうではない。彫刻家として私が求めるのは、少女から大人になっていく過程の、ある一瞬の極みとしての美しさを秘めた女性である。思春期を脱する寸前の、多感に揺れ惑う不安定さ、危うさ、そして危ういがゆえにいっそう美しい女性の姿こそ、私が恋い慕う理想と憧憬の象徴でもある。
 私の作品の中に羽の生えた、空を飛ぶ女性が登場する。あれは子供のころ、白い飛行機雲が一筋真っ青な空になびいているのを見て、いつか大空を飛んで別の世界へ行ってみたいと思った。そのときの夢を具現化したものである。どこか知らない場所へ行ってみたいという気持は、大人になったいまでもある。

大作志向
 私には大作願望がある。木彫の場合、どちらかといえば小品が多く、アトリエにこもって制作することが多い。そんなとき、反動のように大作を手がけたくなる。中でもみんなの目に触れることが多いモニュメントは、私の創作意欲を刺激してやまない。ここ数年、1年に2点のペースで取り組んでいる。
 モニュメントは公的な色彩が強く、もっぱら野外に設置するので、ブロンズで制作することが多い。私が手がけた作品の中で最も大きいものでは、高さが8,5メートルというのがある。頭の中でイメージをふくらませ、エスキースから原寸大へと進み、やがてそれが具体的な形となって空間を占領していくというのは、モニュメントならではの楽しさであり、醍醐味でもある。
 版画についても、10メートルを越えるような作品を手がけている。これだけの大きさになると、紙はすべて特注ということになる。それにこたえるだけの技術を持った紙漉き職人と出会えて、初めて可能な仕事でもある。私の場合、木版画はすべて自刻自摺であり、しかも一枚一枚に裏彩色をほどこすので、厳密に言えばエディションものでも一枚として同じ作品はない。手間暇のかかる作業だが、色の発色や紙のにじみ具合などに興味がある私にとっては、自分の美感に最も適した技法であると信じている。

土に還る
 私は作品の材料に木を多く使っている。これは木が人間と同じように呼吸しながら枯れていくものであるということ、そしてやがては自然の土に戻っていくものであるということに、地球上に暮らす生き物の一人として親しみを感じるからである。地球環境が脅かされている今日、素材にこだわることは作家としての責務でもあると思う。
                      (友永詔三作品集・水玄舎刊より 平成19年12月5日刊)


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